平成28年3月1日 家族全員で
朝4時過ぎに起きて支度をして出発しました。
今回、いつまで滞在することになるかわかりませんが、私の中では
納得はしてなくても覚悟はしていたので喪服も用意しました・・・。
飛行機に乗ると「今飛行機に乗ったから待ってて。返信はいらんよ」と
メールしました。
広島空港に着くと雪が降っていました。
母の車は雪仕様になってないので、まずいなと思っていましたが
弟が何とか午前休をとって迎えに来てくれていて、いったん
家に帰り、荷物を置いて急いで病院に向かいました。
母は私たちの帰りが若干遅れたこともあり、焦っている様子で
息子はチャイルドシートがあるそっちの車に乗せてと言ったのに
気づいたら先に出発していました。
ここに来るのは平成25年6月の手術以来ですが、こんなに
早くは来たくなかったですね・・・。
病室に着くと、父は点滴をしていて、鼻には酸素の管をつけて
いました。
私たちを見ると、また「ごめんね、悪いね」と言いました。
息子には、じじは病気で入院してるとしか説明してないので
ベッドに駆け寄って「じじ、見て見て〜」と、いつものように
絵やブロックなど色々見せていました。
父に笑顔はありませんでしたが、息子の相手はしてくれました。
本来、重苦しい雰囲気になるところ、無邪気な息子の存在は
ありがたいです。
何気ない話をしながら淡々と時間が流れていきました。
弟は午後からは仕事に行くため帰り、夜また来ることになりました。
お昼になり、父は好きな赤飯のおにぎりを食べました。
食欲はないはずですが、全部食べました。
私たちも何も食べないわけにはいかないので、病室で食べるか
交代で食堂に行くかでしたが、父が執拗に「大丈夫だから
みんなで食べに行って」と言うので、心配ではありましたが
食堂に行きました。
父はしんどそうではありましたが、状態は一応安定していました。
そして夕方になり、妻はいったん東京に帰ることになりました。
本人は残ると言ってましたが、ずっといるのも微妙ですからね・・・。
息子もさすがにずっと病室にいるのは退屈なので、母が妻を
新幹線の駅まで送り、今日のところは帰ることになりました。
私がひとりで残りましたが、父は目をつむっていて、呼吸が
苦しそうでした。
また、ずっとしゃっくりが出ているのが辛そうでした・・・。
せめてこれだけでも止まればいいのにと思い、背中をさすったり
しましたが、いったん止まってもまたすぐに出始め。。。
そして、母たちが帰って2時間くらい経った頃から意識障害が
出始めているのか「あっちに行かないといけない」「隣の部屋に
行かないと」と起き上がろうとするようになりました。
その都度「ここが病室なんだから移らなくていいんよ」と言って
寝かせました。
さっきまでちゃんと会話ができていたので、急激な変化に
とまどいました。
そうこうしていると20時前に弟が到着しました。
面会時間も終わりです。
父に「わしのこと誰かわかる?」と聞くと「そりゃわかるよ、達也
じゃろ」と答えてくれたので少しだけホッとしました。
看護婦さんが、ベッドの配置を壁際に変えてくれて、かつ
歩いて降りようとしたら通報がいく仕組みのマットを下に敷いて
くれたので、気がかりではありましたが、明日の朝には回復
していることを期待しつつ、今日のところは帰ることにしました。