平成28年3月7日  日課の電話

今日からまた日常が始まり、朝は普通に息子を保育園に送って

普通に事務所に行きました。

保育園のPTA役員を打診されていて、私の性格上、いつもなら

最終的には断りきれずに受けていたような気がしますが

今回は断りました・・・。

精神的なものもですが、来月以降、頻繁に広島に帰る可能性

があり、かえって迷惑をかけてもいけませんからね。。。

日常といえば、父が平成25年6月に癌の手術をして以降

平日は保育園に息子を送ったあと、駅に着くまでの間

ほぼ毎日父に電話をしていました。

まさに日課になっていました。

話す内容といえば、主に息子の様子の報告でしたが、やれ

ご飯を食べるのが遅いだの、好き嫌いが多いだの、保育園の

仕度が遅いだの、愚痴が大半でした・・・。

父は、まあ頑張るしかないねえと言って、いつも穏やかに

聞いてくれていました。

あとは、シーズン中であれば野球談義ですかね。

この話題は、時に意見がぶつかり合うこともありました。

いずれにしても他愛もない話ばかりでしたが、1日10分としても

2年8か月となると、塵も積もればで100時間を超えています。

私は高校生までは実家にいましたが、先日も書いたように

父は平日は会社(しかも朝は早く、夜はめちゃくちゃ遅い)

休日は農業と、本当に忙しくて、あまりコミュニケーションをとる

時間がありませんでした。

なので、日常生活のことや学校、進路のことなど全て母に

任せていたこともあり、父とはそんなに多く話した記憶が

ありません。。。

そんな感じだったので、仮に父が家にいたとしても何かあれば

母に話すというのが自然な流れになっていました。

大学で関西に、社会人で東京に出てからは、それこそ話す

機会なんかないですよね。

当時は携帯もなかったし、携帯が普及してからも父はしばらく

持たなかったので。

そんなこともあって、この2年8か月の父とのやりとりは

私が広島を離れてからの24年間、もっというなら生まれてから

42年間の空白をほんの少しだけ埋められたような気がしますが

「はいよ。おはよう。(保育園)行った?」という毎日お決まりの

言葉がもう聞けないと思うと寂しいです。

平成27年3月6日  息子の言葉にちょっとびっくり

今日の午前中はあらためてお寺にお参りして、お経をあげて

もらいました。

通夜・葬儀・初七日のお布施も渡さないといけませんからね。

家に帰ると、昨日に続き、父が最後に勤めていた会社の方が

お参りに来てくれました。

午後にはマツダ時代の同期の方がお参りに来てくれました。

カープのオープン戦をテレビでやっていて、黒田が今季初の

先発でした。

普段なら食い入るように見るところですが、なんかフワフワした

気持ちで、ボーっと眺めているという感じでした。

父といっしょに見たかったですね。

ところで、息子と二人きりになる場面があったので、ちょっと

意地悪なのですが、「じじ、どこにいる?」と聞いたら「天国」と

言っていました。

「じじと話したり、遊んでもらったりはもうできないけど、いつも

空の上から見てるからね」と言うと、「そんなことないよ、心の中で

いつでも会えるよ」と言ったので、ちょっとびっくりしました。

母のことが心配ですが、いつまでも広島にいるわけにも

いかないので、夕方の飛行機で東京に帰るために空港に

向かいました。

出発前には父に手をあわせて、また来るからと伝えました。

いつもより1本遅い便だったのと、雨だったこともあり

思いのほか道が混んでいて、かなり焦りましたが

搭乗手続き締め切りのギリギリ5分前に到着しました。

弟の運転じゃなかったら間に合わなかったかもしれません。

平成28年3月5日  心にポッカリ穴が・・・

緊迫した3日間の疲れがドッと出たということもあり、今朝は

みんなゆっくりでした。

私と妻と息子は、明日の夕方の飛行機で帰るのですが

今日はまさに休日で、何も予定がありません。

確定申告の準備をしないといけないのですが、さすがに

心にポッカリ穴があいたような感じでやる気がおきません。。。

ゴロゴロしていたらお昼になり、母は弟と息子といっしょに

昨日から泊まっていた祖母を呉の家に送って行きました。

私と妻も行きたかったのですが、誰かお参りに来てくれる

可能性があるので留守番をすることに。

実際、最後に働いていた会社で父の部下だったという方が

お参りに来られました。

父の印象は、優しい人で、10年間で一度も怒られたことが

ないんじゃないかとおっしゃっていました。

誰もがそうですが、家庭での父の姿は知っていても職場での

父の姿は知らないですからね。

家庭ではいい親父だとしても、会社での上司としては最低・・・

ということは普通にある話だと思いますが、父については

多少のリップサービスはあるとしても変わらぬ雰囲気である

ことを教えてもらい、嬉しかったです。

平成28年3月4日③  本当のお別れ・・・  

ついに本当のお別れの時がきました。

棺の蓋が閉められ、手を合わせると、父は炉の中に消えて

いきました。

お父さん、さようなら。

今まで本当にありがとうね。

浄土真宗では、三途の川を渡るという考えがないらしく

亡くなった瞬間に仏様になって極楽浄土にいくので

父はもう祖母や祖父たちと再会しているはずです。

拾骨までの時間、皆で食事をとりました。

この約1か月間、父のことが気になって、あまり食欲が

ありませんでしたが、弁当を全部食べました。

今朝体重を計ったら普段より3キロ近く減っていたので

少しだけ戻さないといけませんね。

東京の火葬は1時間かかりませんが、うちは田舎なので

1時間半以上かかりました。

完了のアナウンスが流れ、部屋に入ると、父が骨になって

いました。

祖母、祖父とみてきましたが、さっきまでの姿との違いに

なかなか現実とは思えません。

母がポツリと、小さくなったねと言いました。

説明を受けながらお骨を拾いました。

私が遺影を、母がお骨を持って斎場をあとにし、父を自宅に

連れて帰りました。

そして家に着くと、引き続き初七日の法要をおこないました。

講中の人たちが帰り、親戚の人たちが帰り、家族と母方の

祖母だけになると、終わったんだなという気持ちになりました。

皆、少し休憩して、夜ご飯にしましたが、食事を用意する元気も

買いに行く元気もないので、余り物の弁当などで済ませました。

疲れてはいましたが、気が張っているので眠くならず、祖母と

遅くまで話をしました。

こんなに話したのは久々です。

平成28年3月4日②  いつか自分を見失いそうになった時に

いつか自分を見失いそうになった時に思い起こすために

葬儀の時の挨拶の言葉を記録に残しておこうと思います。

父のことを少し話させてください。

思えば父はこの10年くらい、常に何かの病気と戦っていました。

しかし、まったく弱音など吐くことなく、いつも自分のことよりも

家族のことを心配していました。

自分が大変な時でも家族のことを思ってくれていました。

今回、癌の再発が発覚し、治療の術がないとわかってからの

10日間、精神的に本当に辛かったと思いますが、そんな時でも

「ごめんね。心配かけるね。迷惑かけるね。」と言っていました。

私が、まだまだ親孝行できてないのにごめん、と謝った時も

「そんなことないわいねえ、孫にも会えたし、ええ人生じゃったと

思うよ。」と言ってくれました。

どれだけ救われたかわかりません。

「父さん、このあいだの誕生日にみんなから送った手紙

あの時は冷静には読めんかったと思うけど、中に入れるけえ

ゆっくり読んで。」

「病気で我慢しとったビールも〇〇(私の弟)が入れてくれるけえ

ゆっくり飲んで。」

「母さんのことが心配じゃろうけど、わしらで支えていくけえ

安心して。」

「かわいくてかわいくて仕方なかった〇〇(孫)の成長をもっと

もっと見たかったじゃろうね。でも〇〇は、この5年間

父さんにかわいがってもらったことは絶対に忘れんけえね。」

「なかなかできんかった二人目の孫がやっと生まれることに

なって、一番喜んでくれたんが父さんじゃったね。

生まれるところを見せれんのが残念で仕方ないけど

父さんの生まれ変わりじゃと思って大切に育てます。」

「父さんの家族でいられて、みんな本当に幸せじゃったよ。

父さん、今までありがとう。みんなで頑張るけえ安心して。」

平成28年3月4日①  あれをしておけばよかった・・・  

朝、9時に葬儀社の方が来て、父の棺が運び出されました。

何十年も住んできた我が家とのお別れです。

11時に葬儀が始まると、今日もたくさんの方が参列してくれて

いました。

棺の中に入れるものをもっと考えればよかったのですが

一昨日の夜は遺影用の写真を選ぶので精いっぱいだったし

昨日の夜も気持ちの余裕がなく。。。

朝になって、あっ・・・と思いましたが、時間がなく、とりあえず

先日私と妻と息子から誕生日に贈った手紙と名前入りの

ボールペン、息子が昨日からつくっていたすごろくや絵を

入れることにしました。

ところで、写真といえば、父は息子(孫)の写真を撮るのが

生きがいみたいな感じだったので、息子(孫)の写真は

これでもかというくらいたくさんありましたが、父の写真は

ほとんどなく・・・。

あっても集合写真の小さな顔のものばかり。

今、思えば、息子といっしょのアップの写真をもっともっと

撮ってあげればよかったなと・・・。

おそらく、その時の顔が一番いい笑顔でしょうからね。

他にもあれをしておけばよかったのにできなかった・・・と思う

ことは、挙げればキリがないです。

いつでもできると思っていましたからね。。。

マツダスタジアムに息子といっしょに連れて行ってあげられ

なかったこと。

大好きな富士山を近くでもう一度見せてあげられなかったこと。

勤続30年のお祝いで、母と祖父母と行って楽しかったという

ハワイにもう一度連れて行ってあげられなかったこと。

昨年の春に古希のお祝いで行こうとしていて中止になった

石垣島に連れて行ってあげられなかったこと。

結局、古希のお祝いができなかったこと。

話ができなくなる最後の瞬間に、いっしょにいてあげられ

なかったこと・・・。

誰もがあとから思うことですかね。

平成28年3月3日  お通夜

朝起きると、父が横で安らかに眠っていて、やはり夢じゃないん

だなと実感しました。

お通夜は18時からで、午前中に葬儀屋さんとの細々した

打ち合せがありました。

妻が飛行機でお昼前に広島空港に到着しましたが、私は

抜けられないので弟と息子に迎えに行ってもらいました。

私は司法書士会に、弟は会社に連絡して生花を出してもらう

ことにしました。

妻のお母さんと姉ちゃんも大分から駆けつけてくれることに

なりました。

問題は父の関係者です。

既に定年で働いてはいませんでしたが、マツダに32年間

東洋コルクという会社に13年間勤めていましたからね。

母はいっぱいいっぱいで、誰に連絡したらいいかわからないし

いいよと言っていましたが、父のためにも連絡しようよとなだめて

思い当たるキーパーソンに父の携帯電話からメールや電話を

させました。

電話は出ない人が多かったですが、折り返しの連絡がある度に

驚かれました。

あれこれすることがあるというわけでもないのですが、気づけば

夕方になっていて、父を棺に入れることになりました。

お通夜の会場である斎場に着くと、生花が飾られていて

広島東洋カープからも届いていました。

マツダの時の同僚や後輩がカープ球団にいますからね。

やはり連絡してよかったです。

父も喜んでいると思います。

お通夜にはたくさんの人が駆けつけてくれました。

今回、喪主は母がつとめましたが、最後の挨拶は私がしました。

通夜なので、手短にしましたが、父のことを話すところでは

さすがに泣いてしまいました・・・。

明日の葬儀・告別式も同じ会場なので、本来であれば父は

そのまま安置して、親族の一部が泊まるのですが、父も

こんなところでは落ち着かないだろうと思い、今日も住み慣れた

我が家に連れて帰ることにして運んでもらいました。

そして、まさに最後の夜をいっしょに過ごすことにしました。

親族もいっしょに帰って、遅い夕食をとりました。

幼なじみの親友が駆けつけてくれたので、手をあわせて

もらいましたが、同じく母を癌で亡くしているので、当時の話に

なりました。

何歳ならいいというのはないのですが、それにしてもやはり

71歳は早すぎます・・・。

あと10年、せめてあと5年はと思ってしまいます。

父の母は94歳まで生きましたが、晩年は足腰の痛みもあり

何をするでもなく寝てばかりだったので、早くお迎えが来てほしいと

よく言っていて、最後は完全に認知症になり、施設に入りました。

父に寿命を分けてほしかったです・・・。

平成28年3月2日②  旅立ち

先週、昨日今日と父を見ていて、私の中でもわからなくなって

いました。

もちろん1日でも1時間でも長く生きていてほしいのですが

よくなる見込みがない状況で、辛そうにしている姿を見ると

まして話もできなくなってしまった今となっては、どうなのかと・・・。

そういう葛藤の中、状態がさらに悪化している様子で

看護婦さんが心拍数と血圧が画面で見える機械を病室に

持ち込みました。

まさにドラマ等で見るやつです。

弟と息子がまだ帰ってきていなかったので「父さん、辛いじゃろうが

もう少し頑張って」と声をかけました。

そこに弟と息子が帰ってきました。

間に合ってよかった。

「帰ってきたよ!」と、耳元で話すと、その10分後に父は天国に

旅立ちました。

母も私も泣きました。

息子もさすがに察したみたいで号泣しました。

皆で「よう頑張ったね。ゆっくり休んで。今までありがとう」と

顔を撫でました。

先生が来て、心拍の停止と瞳孔を調べて臨終を告げられました。

16時9分でした。

私も成年後見の仕事で少なからず、人の死に携わっているので

このあとの流れはわかっていましたが、葬儀業者さんが遺体を

引き取りに来れる時間を教えてほしいと言われました。

田舎では、通夜や葬式を家族だけでというわけにはいかないので

母がまずは講中頭(こうじゅうがしら)というとりまとめ役の人に

連絡を入れました。

弟は父が着替える浴衣を売店に買いに行きました。

家での色々な準備のために母、弟と息子は一足先に帰り

私が病院に残りました。

そして、看護婦さんたちといっしょに父の体を綺麗に拭いて

浴衣に着替えさせました。

髭も剃ってもらってさっぱりした父を見ると、穏やかな顔で

まるで寝ているようでした。

冷暗室から見送り、私も車で家に帰ると、既に近所の人たちが

たくさん集まっていました。

お寺の住職も来ていて、仮通夜がおこなわれました。

夜、ロウソクと線香が消えないように注意しながら、私と母と

息子は父の横に布団を敷いて寝ました。

母はこの何日かはあまり寝れていなかったと思うので、今日は

逆に解放されたのか割とすぐに寝ました。

私もしばらく考え事をしていましたが、そのうち寝てしまいました。

1か月前には、開幕三連戦のどこかでマツダスタジアムに

家族で行こう!と話していたのに、父がこの世にもういない

なんて信じられないです・・・。

平成28年3月2日①  急変

夜中に電話がなかったのでホッとしていたら、朝、病院から

母の携帯に連絡がありました。

ドキッとしましたが、内容は代わりの部屋が用意できたとの

ことでした。

急遽入院したため、今の部屋は仮の部屋でしたからね。

そんなことでわざわざ電話してこなくてもいいのにと

若干、憤りを感じました。

じゃあ行こうと準備をしていると、10分後にまた電話があり

今度は母の顔が歪み、泣きそうになっていました。

最悪な内容を想像しましたが、話し終えて聞くと、朝見に行ったら

吐血をしていて、意識がなくなっていたと・・・。

今は脳のCTを撮りに行っているが、今すぐどうこうゆうわけでは

ないとのことでした。。。

すぐに出発して、既に出勤していた弟にも状況を知らせました。

息子も連れて行くしかないので、母は私の妻を昨日無理矢理

帰してしまったことを後悔していました。

それより何より、自分だけでも朝一番に行くんじゃった・・・

昨日、無理矢理にでもお願いして泊めさせてもらうんじゃった・・・

と、涙を流していました。

病院に着くと、父は病室に帰ってきていて、点滴をしながら

酸素マスクをつけていました。

目をつむり辛そうに荒い呼吸をしていましたが、意識はないので

痛みや苦しさはないはずとのこと。

ただ、耳は聞こえるはずだとのことなので「父さん、みんな来たよ」

と、話しかけましたが反応はありません。

母はすりよって父の顔を撫でていました。

 その後、別室で主治医の先生から癌の手術をした時から

今に至る経緯の説明を受けました。

PCの画面で記録を探しながらでしたが、むしろ私たちの方が

時系列を明確に把握しているので、ちょっとイラッとしました。

頭のCTの画像も見せてもらいましたが、内部で出血している

とのことでした。

一晩、孤独と苦しさと戦ったのでしょうね・・・。

再発したことは、父の兄弟には知らせていましたが、その後の

細かい状況は伏せていました。

父はもちろん、母も余裕がなかったというか、知らせる気力が

なかったという感じですが、さすがにこうなったら知らせない

わけにはいかないので、母がおじさん(父の兄)に知らせて

すぐに向かうということになりました。

といっても2時間弱はかかりそうです。

福岡のおじさん(父の弟)は遠いので連絡しませんでした。

看護婦さんが定期的に部屋に来て、喉と鼻に溜まった唾や血を

吸引してくれましたが、意識がないとはいえ、その時は父の顔が

歪んでいました・・・。

「スッキリするから我慢して頑張って」と声をかけました。

今日の担当の看護婦さんは、やたら明るくて笑顔が多く

この状況にはかなり場違いというか違和感がありましたが

元気を出させてくれようとしているのかなとも思いました。

仕事を抜け出して弟が到着しました。

また、おじさん夫婦も到着して、父に話しかけてくれました。

私と弟と息子はいったん席を外しました。

体に機器をつけているので、心拍数や血圧に変化があると

発報して看護婦さんが見に来ます。

その度にドキッとします・・・。

おじさん夫婦もこのままずっといるわけにもいかないということで

15時半に帰ることになり、弟が最寄り駅まで送って行きました。

息子も気分転換について行かせました。

平成28年3月1日  家族全員で

朝4時過ぎに起きて支度をして出発しました。

今回、いつまで滞在することになるかわかりませんが、私の中では

納得はしてなくても覚悟はしていたので喪服も用意しました・・・。

飛行機に乗ると「今飛行機に乗ったから待ってて。返信はいらんよ」と

メールしました。

広島空港に着くと雪が降っていました。

母の車は雪仕様になってないので、まずいなと思っていましたが

弟が何とか午前休をとって迎えに来てくれていて、いったん

家に帰り、荷物を置いて急いで病院に向かいました。

母は私たちの帰りが若干遅れたこともあり、焦っている様子で

息子はチャイルドシートがあるそっちの車に乗せてと言ったのに

気づいたら先に出発していました。

ここに来るのは平成25年6月の手術以来ですが、こんなに

早くは来たくなかったですね・・・。

病室に着くと、父は点滴をしていて、鼻には酸素の管をつけて

いました。

私たちを見ると、また「ごめんね、悪いね」と言いました。

息子には、じじは病気で入院してるとしか説明してないので

ベッドに駆け寄って「じじ、見て見て〜」と、いつものように

絵やブロックなど色々見せていました。

父に笑顔はありませんでしたが、息子の相手はしてくれました。

本来、重苦しい雰囲気になるところ、無邪気な息子の存在は

ありがたいです。

何気ない話をしながら淡々と時間が流れていきました。

弟は午後からは仕事に行くため帰り、夜また来ることになりました。

お昼になり、父は好きな赤飯のおにぎりを食べました。

食欲はないはずですが、全部食べました。

私たちも何も食べないわけにはいかないので、病室で食べるか

交代で食堂に行くかでしたが、父が執拗に「大丈夫だから

みんなで食べに行って」と言うので、心配ではありましたが

食堂に行きました。

父はしんどそうではありましたが、状態は一応安定していました。

そして夕方になり、妻はいったん東京に帰ることになりました。

本人は残ると言ってましたが、ずっといるのも微妙ですからね・・・。

息子もさすがにずっと病室にいるのは退屈なので、母が妻を

新幹線の駅まで送り、今日のところは帰ることになりました。

私がひとりで残りましたが、父は目をつむっていて、呼吸が

苦しそうでした。

また、ずっとしゃっくりが出ているのが辛そうでした・・・。

せめてこれだけでも止まればいいのにと思い、背中をさすったり

しましたが、いったん止まってもまたすぐに出始め。。。

そして、母たちが帰って2時間くらい経った頃から意識障害が

出始めているのか「あっちに行かないといけない」「隣の部屋に

行かないと」と起き上がろうとするようになりました。

その都度「ここが病室なんだから移らなくていいんよ」と言って

寝かせました。

さっきまでちゃんと会話ができていたので、急激な変化に

とまどいました。

そうこうしていると20時前に弟が到着しました。

面会時間も終わりです。

父に「わしのこと誰かわかる?」と聞くと「そりゃわかるよ、達也

じゃろ」と答えてくれたので少しだけホッとしました。

看護婦さんが、ベッドの配置を壁際に変えてくれて、かつ

歩いて降りようとしたら通報がいく仕組みのマットを下に敷いて

くれたので、気がかりではありましたが、明日の朝には回復

していることを期待しつつ、今日のところは帰ることにしました。

平成28年2月29日  入院

メールで問い合わせをしていた免疫細胞療法のクリニックから

朝、連絡があり、父の今の状態でも白血病など血液が病気になって

いるのでなければ可能との返事がありました。

3か月くらい(1サイクル)やってみないと効果はわからない

とのことですが。

ちなみに治療費は健康保険適用外なので、自費で1サイクルが

約140万円となります・・・。

このような状況になって、さらに悩ませることは逆に酷かとも思い

ましたが、一応母には伝えました。

ホームページを見てみるとは言っていましたが、父の状態の

悪化がそれを許しませんでした。

本来であれば、次回の診察は3月2日のところ、急遽受診した

結果、本人は嫌がっていましたが入院となりました。

血小板だけでなくヘモグロビンも急激に減っているみたいで

かなり息苦しそうとのこと・・・。

木曜日の午後の飛行機を予約していて、今回は私と妻と

息子の3人で帰る予定でしたが、明日の朝一番の飛行機で

向かうことにしました。

夜に少しだけ電話で話しましたが、かなり弱っていて、また

「ごめんね・・・」と言っていました。

謝る必要なんか全然ないのに。。。

明日の朝一番で行くからそれまで元気でいてよと言って切りました。

神様お願いです。

あと何日か時間をください。

そして、本人が望むなら、なんとか最後は家に連れて帰って

あげたいです。

それが寿命を縮めることになるとしても。

平成28年2月28日  行ける時に

今日は特別研修(チューター)がある日ですが、広島に

いることになるのかどうかが流動的だったため、急に出席

できなくなり迷惑をかけるのはまずいということで、事前に

代打をお願いしました。

私のグループの受講生さんたちには、最後までいっしょに

研修を終えることができず申し訳ない気持ちでいっぱいですが

こればかりは・・・。

結果的には、金曜日の夜にいったん東京に帰り、今日も1日

悪い知らせはなかったので、出席できたわけですが、そこは

割り切ることにしました。

そして、想定外の時間ができたので、行ける時にと、散髪に

行きました。

普段、散髪はリラックスできる時間ですが、今回ばかりは

たのむから終わるまでの間に母から電話がかかってくるような

ことがないようにと祈る気持ちでした。

平成28年2月27日  免疫細胞療法

この状況になってはもう・・・とは思うのですが、やはりこのまま

何もできないのは父があまりにも可哀そうで、以前にテレビで

見て気になっていた免疫細胞療法について、今の父の状態でも

おこなうことが可能なのかどうか、広島のクリニックにメールを

送ってみました。

今日と明日はお休みみたいなので、月曜日に返事があると

思います。

この1か月間、病院で告げられる内容は、どれもこれも厳しい

ものばかりでした。

せめてひとつくらい希望をもてる話があってもと思うのですが。

平成28年2月26日  逆に励まされ

父は自室で横になっていたので、お昼前にベッドのそばに行って

話しました。

あまり気を落とさずに頑張りなさいと言われて、さすがに泣いて

しまいました・・・。

せっかく新しい命が生まれてこようというのにこんなことに

なってごめんねとも・・・。

まだ全然親孝行できてないのにと言うと、そんなことはないよ

ええ人生じゃったと思うよ、孫も見れたんじゃしね、と。

息子(孫)のことを本当に溺愛しているので、成長する姿を

もっともっと見てほしかったし、見たかったでしょう。

本当に無念です。

母さんは精神的には強いと思うけど、母さんのこと頼んだよ

とも言われました。

母がご飯の用意ができたと呼びに来ましたが、制してもう少し

話を続けました。

あまり食べたくなさそうでしたが、食べないと体力が落ちる

一方なので、食べに行こうと促しました。

そして、大学受験の時に珍しく父に怒られたことを話しました。

なにがなんでも広島大学に行きたかったのにセンター試験で

大失敗してしまい、私立大の受験を前にして脱け殻のように

なっていたのですが「そんなつまらん気持ちでおるんなら全部

受けるのやめんさい」と怒られ、びっくりしました。

母には小さい頃からよく怒られましたが、父は本当に仕事が

忙しくて、接する時間自体が少なかったですからね。

必然的に怒られる機会もほとんどなく。

もともと穏和な性格なこともありますが。

しかし、その言葉で自分の甘えに気づき、気合を入れなおして

難関校であった関西学院大学に合格することができました。

父は、そんなことがあったかいねえ?と言っていました。

また、司法書士試験の前日に極度のプレッシャーから

一睡もできず、こんなことで集中力がもつのか・・・?と

不安になっていた私に、寝れんかったのは仕方ないんじゃけえ

高めの栄養ドリンクを2本買って、朝と午後の試験前に

飲みなさいと言ってもらい、どれだけ気持ちが楽になったか

わかりません。

このエピソードは披露宴でも話しました。

この2つの話を出して、感謝の気持ちを遠回しに伝えました。

会社を辞めて、司法書士の試験勉強を始めると決意を伝えた

時も一切反対せずに応援してくれたよねとも話しました。

ところで、夕方の飛行機でいったん東京に帰るつもりでしたが

父を見ていると、キャンセルしてこのまま残った方がいいんじゃ

ないかと迷いました。

しかし、〇〇さん(妻)もずっと一人で息子(孫)の相手は大変

だろうから帰ってあげなさいと。。。

結局、予定どおり夕方の飛行機で帰ることにしましたが

父はしんどいみたいで、空港までは行かないよ、わりいねえと

弱々しい声で言いました。。。

そして、こういう状況になった以上、本来なら身の回りの整理を

しないといけないんじゃろうが、する気になれんのよと・・・。

私は、そんなのしなくていいと言いました。

また、遺言とかも書くべきなんじゃろうがねえと言うので

残されたわしらがもめることは絶対ないけえ、そこは安心して

ただ、どうしてもこうしてほしいというのがあるなら書く?と言うと

いや、皆で話し合って決めるならそれでええよと。

妻からは、お父さんが自らそういう気持ちにならない限り

このあとのことなんか絶対に聞くべきじゃないと怒られましたが

まさにそうですね。

到底納得はできないでしょうが、どうしようもないこの現実を

少しだけ受け入れているように見えました。

私は、これが最後の対面になんか絶対にならないようにと

心の中で祈り、また来週の木曜日に今度は息子を連れてくるから

楽しみに待っておいてと言って父の部屋を後にしました。

一昨日の心理状態では、孫に会うのは辛いので来てほしくないと

言っていましたが、今日は楽しみにしとるよと言ってくれました。

平成28年2月25日  父と過ごす時間

息子を保育園に連れて行ったあと、銀座のクリニックで漢方薬と

サプリメントを受け取りました。

病院ではもう何もできませんが、だからといって何もせずには

いられないので、効き目に関わらず少しでも希望をあたえて

いただいたことに感謝です。

その後ダッシュで羽田空港に向かいました。

結果的には充分間に合ったのですが、クリニックでかかる時間が

読めなかったので、余裕をみて今回JALではなくANAをとりました。

乗るのはいつ以来でしょうか?

父母が東京に来る時は基本ANAなので今回はらしいといえば

らしいのですが。

広島空港に着くと、予想外に父もいっしょに迎えに来てくれて

いました。

家に一人にしておくのは母としても心配だったようです。

元気も笑顔もありませんでしたが、会えたことにホッとしました。

車内での雰囲気はいつもと全然ちがい、ギクシャクしていて

私自身戸惑いましたが、つとめて普段通りに話すようにしました。

家に着くと、すぐに漢方薬を煎じて父に飲ませました。

少しでもよくなることを信じて。

父は部屋で休んでいて、時々私がいる部屋に顔を出しました。

話しておきたいことはたくさんあるのですが、それを話すと

いうことは最後の時を連想するので、言えません・・・。

よりによってこんな時に弟は泊まりで大阪に出張なので

夜ご飯は3人で食べました。

テレビのニュースを見ながら、何気ない会話をして。

そんな中でも私はわざとらしくない感じで、父のこれまでのことを

色々話してもらうように話題をふりました。

いつもの笑顔は一切ありませんでしたが、話してくれました。

夜は母の計らいで、元々は祖母が使っていた部屋に父のベッドと

私の布団を用意してくれました。

父と二人だけで寝るのなんて初めてじゃないですかね。

迷っていたのは、私たちが一昨日送って今日届いた父への

プレゼントを渡すかどうかということ。

母が受け取って隠してありました。

まだほんの少しながら希望があった時に書いた手紙なので

読むと本当に辛いだろうなと思い・・・。

特に息子(孫)からの手紙には、今となっては叶わないことが

たくさん無邪気に書いてあるのですから。。。

迷いましたが、私がお風呂に入っている間に渡すよう母に

お願いしました。

そして、隣の部屋にいて、全部見た頃に部屋に入りました。

息子が選んだハッピーバースデーのメロディとアナウンスが

流れる飛行機とスタジアム(紙の模型)があるのですが

音が聞こえてこなかったので「これ音が鳴るんよ、押してみて」

と言いました。

そして、スタジアムの方の「ホ〜ムラン!ハッピーバースデ〜!」

というアナウンスを聞いた時に少し笑ってくれました。

救われた気がしました。

横になって、部屋を暗くすると、30分くらいですが、近所の人の

ことなど他愛もない話をしました。

やはりこのあとのことについては話せず、そのうち父は寝て

しまいました。

会えないまま最後を迎えるのは絶対に嫌だったので、ここ数日の

胸の支えがほんの少しだけとれました。

でもやはりまだ受け入れるのは難しいです。

誰もがいつかは迎える別れですが、まだまだ先だと思って

いましたからね。

私もそのうち寝入りましたが、父がトイレに行く度に起きました。

また、ふと目が覚めては、父の方を見て寝息をたてているのを

見て安心しました。

しかし本当に辛いです。

平成28年2月25日  非公開

父のことについて記録を残しておきたいと思い、ここ数日間

書いていましたが、諸事情により非公開にしました。

ただ、毎日書いてはいるので、いずれは公開する日もくるかと

思います。

もちろんそれ以外のことを書いた時には公開します。

平成28年2月24日  治療断念

本日、病院での治療に向けてのすべての望みが絶たれました。

言葉にするほど簡単ではないのですが、覚悟をきめないと

いけないようです。

明日、銀座のクリニックで漢方薬を処方してもらい、それを

持って実家に帰ろうと思います。

色々な方に迷惑をかけてしまいますが、明日から月曜日までの

予定をキャンセルしました。

皮肉なことに明日は父の71歳の誕生日です。

悩んだ末に昨日、元気を出してもらおうと思い、私と妻と息子で

手紙を書いて出したのですが、今の状況となって明日それを

見ると思うとあまりにも残酷です。

父はまだ現実として受け止めきれていないので、話をする

気力もないらしく、来なくていいと言っていると母から聞きました。

見れば喜ぶであろう息子(孫)を連れていくつもりでしたが

それは本当に勘弁してほしいと・・・。

そして、父の意向をくんで連れていかないことにしました。

しかし、このまま会わずに1月に会ったのが最後だったというのは

私の中ではありえません。

正直なんと話しかけたらいいのかわからないし、会ってみて

私自身どうなってしまうのかもわかりません。

それでも会って話がしたいです。

平成28年2月23日  厳しい宣告・・・  

まだ推測の範疇ですが、非常に厳しい内容の宣告がされました・・・。

詳細を書くにのは辛すぎます。

しかし、最終の結果はまだわかっていないので、1%の可能性に

かけるしかありません。

平成28年2月22日  治療延期

入院前の血液検査により、父の抗がん剤治療の開始が延期に

なりました。

ちょっとよくない数値が出ていて、本日急遽骨髄を検査することに

なったようです。

何もなければというわけにはいかないのかもしれませんが

対処できるものであればいいのですが・・・。

平成28年2月21日  連勝!しかし・・・

昨日に続き、ジャイアンツとのオープン戦も快勝で連勝しました!

新戦力のドラフト1位岡田明丈投手とドラフト6位の仲尾次

オスカル投手も無失点に抑えました。

しかし、よくないニュースも・・・。

今季は先発に復帰して、開幕投手を目指していた大瀬良大地

投手が右肘の違和感で登板を回避することに。

検査を受けてみないと詳細はわかりませんが、開幕は微妙

みたいです。。。

心配ですね。

もちろん、全員が無事にいくということはないわけですが

25年ぶりの優勝を目指すにはいなくてはならない選手です。

軽傷であることを祈ります。

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